World > Africa > Democratic Republic of the Congo

Franco et O.K. Jazz (1956-89)

'Gege' Yoka Mangaya, guitar (1974-88)
Thierry Mantuika, Kobi, guitar (1974- )


Artist

LE THU-ZAINA

Title

BA PATRONS NA BA MBONGO (1970/1971)


ba patrons
Japanese Title

国内未発売

Date 1970/1971
Label AFRICAN/SONODISC CD 36576(FR)
CD Release 1997
Rating ★★★★☆
Availability


Review

 一部の熱狂的なファンを除けば、ルンバ・コンゴレーズはどれも似たように聞こえるかもしれない。かくいうわたしも、フランコ特集のためにルンバ・コンゴレーズにどっぷり浸かったいまでさえ、ルンバ・コンゴレーズはやはりワン・パターンだと思っている。しかしマカロニ・ウェスタンに似て、ワン・パターンだからつまらないんじゃなくて、ワン・パターンだからおもしろいといえないだろうか。正確にいうと、ワン・パターンのなかのブレというかバイアスの妙がたまらないのである。
 この微妙なちがいなるものは、始末が悪いことに、経験を積めば積むほどわかるようになってくるものだから、麻薬中毒のようにズブズブのめりこんでしまって、いつしか周囲がまったく見えなくなってしまう。
 ここに紹介するトゥ・ザイナは中毒にかかる前から気になるグループではあったが、近ごろますます好きになってしまった。ブレの醍醐味がここにはある。

 トゥ・ザイナ('Thu Zaina' とも'Thu Zahina' とも書く)は、ザイコ・ランガ・ランガの誕生をバックアップしたバンドとして知られる。ニョカ・ロンゴ Nyoka Longo'Jehrsy Jossart'、マヌアク・ワク Manuaku Waku'pepe Felly'、ジュール・プレスリー Jules Presley Shungu Wembadio(のちのパパ・ウェンバ)らによる69年クリスマスの伝説的なギグは、トゥ・ザイナのメンバーだった“ジェジェ”ヨカ・マンガヤ 'Gege' Yoka Mangaya の自宅でおこなわれた。そこでジェジェ本人もギターを弾いたという。
 
 そういう意味では、トゥ・ザイナはザイコの兄貴分にあたる。しかし、ザイコがその後、ザイール・ルンバ・シーンの中心的な存在として君臨していったのとは対照的に、トゥ・ザイナは74年に消滅してしまった。このちがいはどこから来るのか。興味を持ったわたしは、本盤収録曲とほぼ同時期にリリースされたザイコ最初期の音源を集めた"LES PENETRES"(NGOYAARTO NG017)と聴きくらべてみた。

 全体に混沌とした印象のザイコにたいして、トゥ・ザイナの音楽は洗練度とテクニックの面で上まわっている。音楽的な目新しさではザイコのほうにやや分があるものの、まだ中途半端な印象があり、もしザイコがこのような音楽(わたしは好きだけど)をつづけていたなら、トゥ・ザイナとおなじような運命をたどったことだろう。

 両者の運命を隔てたのは、ザイコが72年に発表したダンス“カヴァシャ”のヒットだったとわたしはみている。第3世代の代名詞になった、曲の後半部セベン(ダンス・パート)の拡大と加速化、アニマシオン(掛け声)の連呼は、このとき確立されたといわれている。
 英国のレーベル、レトロアフリークから発売された"COUP DE CHAPEAU"(RETROAFRIC RETRO14CD)には、本盤にはない72〜74年の音源がいくつか収められている。これらを聴くと、トゥ・ザイナもカヴァシャのヒットに刺激され、これにあやかったことがわかる。しかし、本家にくらべるとハチャメチャさというか、ハッタリ根性が乏しく、かえってかれら本来の持ち味が殺されてしまっているように感じられてならない。

 カヴァシャが音楽のスタイルではなく、ダンスのスタイルであったことからわかるとおり、この時代のザイール音楽シーンは聴いてどうのということより、いかに踊れるかがヒットを左右した。もとよりダンスと音楽を分けて考えることはできないけれども、トゥ・ザイナ衰退の要因はダンスにのり遅れたことがあったのではないかとわたしは思っている。

 しかし、日本人であるわたしはあくまで音楽としてこれを聴いている。すると、かれらがザイコにけっして劣らない高い音楽性を持っていたことがわかってくる。とくに70年と71年発売の音源11曲を集めた本盤は、かれらの音楽的ピークをしめすものとして高く評価したい。
 
 トゥ・ザイナは、67年末に17歳から19歳のメンバーからなる学生バンドとしてスタートした。その後、メンバーチェンジを経て、69年、念願のレコード・デビューを果たす。
 当時のメンバーには、ソロ・ギタリストとして、のちにザイコ・ランガ・ランガやショック・スタールで活躍するロクシー・ツィンパカ Roxy'Niawu'Tshimpaka 、ベースには、フランコのTPOKジャズを経て、ニョカ・ロンゴのザイコ・ンコロ・ムボカに加入することになる“ジェジェ”ヨカ・マンガヤがいた。72年にロクシーが脱退すると、後任のギタリストとしてチェリー・マントゥイカ Kobi Thierry Mantuika が加入。チェリーはグループが解散した74年に、ジェジェとTPOKジャズ入りする。

 そのほかに、フロント・シンガーに、デニスとブルーノのボニエメ Denis & Bruno Bonyeme 兄弟?、アベリ・ケリー Abeli Kelly らがいて、かれらあたりがバンドの中心メンバーだったようだ。
 レトロアフリーク盤のクレジットをみると、70年の時点で11名ものヴォーカリストを擁する総勢18名におよぶ大所帯だったが、レコードではせいぜい10名前後にしか聞こえない(このことは多くのアフリカのバンドに共通してみられる現象)。

 トゥ・ザイナはよく、フランコのO.K.ジャズやロシュローのアフリカン・フィエスタ・ナショナル(アフリザ・アンテルナショナル)といった大所帯のオルケストルと、ザイコ以降のギター中心のバンド・スタイル(かれらは“イェイェ”ye-ye と称された)との橋わたし役を担ったといわれる。たしかにかれらの音楽からは新旧世代それぞれの特性が感じとることができ、このブレンド感こそ最大の魅力なのだと思う。

 ハーモニー主体のヴォーカル・スタイル、メタリックに響くロクシーのギターはO.K.ジャズからの影響が色濃い。また、'BA SOUCIS YA MOTEMA NA BOYI' ではラテン系のリズムが使われ、後半にはモントゥーノ(コール・アンド・レスポンス)まではいっている。冒頭の'ZEMI YA ZUWA' ともども、サックスがはいっていて、これはもうほとんど60年代後半のO.K.ジャズ・サウンド。

 他方、'MERCI INCH ALLAH!' 'KAMIZE' では、“イェイェ”世代にふさわしく、西洋ポップスの影響を受けた青っぽい歌にはじまり、そのあと比較的長いセベンがつづく。アニマシオンが連呼されるなか、ロクシーによるザイコ・スタイルのスピーディなギター・ソロが披露される。ドラム・キットはもはや当たり前のように使われ、スネアのバタバタしたドラミングはいかにも“イェイェ”風だ。'HOZANA' 'MUPENZI WANGU YOUYOU' では伝統的な要素をつよめ、よりザイコに近い感覚になっている。また、青年の悩みや苦しみを歌詞に託すケースも多かったらしい。

 ところで、トゥ・ザイナは70年にフランコのレーベル、エディション・ポピュレイルと契約を結んだ。CDの後半5曲はエディション・ポピュレイルのためにレコーディングされた15曲から採ったもの。録音時期がやや旧いせいか、フランコへの敬意からか、ここで聞かれるロクシーのギターは音色もフレーズもかなりフランコに近い。管楽器ははいっておらず、“イェイェ”風の局面もないわけではないが、セベンで一気に加速しないし、ミディアム・テンポの優雅で繊細なメロディ・ラインはいかにもO.K.ジャズ風。

 O.K.ジャズ・シンパのわたしは、これら5曲に前述の'BA SOUCIS YA MOTEMA NA BOYI' 'ZEMI YA ZUWA' を加えた7曲がめちゃくちゃ気に入っている。なかでも、ロクシーのギターの輝きは特筆もの。ただし、これら5曲は"COMPILATION MUSIQUE CONGOLO-ZAIROISE (1972/1973)"(SONODISC CD 36531)の5曲と完全重複。残念。

 時代の流れとはいえ、トゥ・ザイナがザイコ路線にむかったのはあきらかに失敗だった。このままO.K.ジャズ路線をつき進んでいたら、どんなにすごいバンドになっていたかと思うとそのことが惜しまれてならない。
 なお、トゥ・ザイナとパトロン、フランコとの愛憎関係については、FRANCO "20EME ANNIVERSAIRE 6 JUIN 1956 - 6 JUIN 1976 VOLUME 1"(AFRICAN/SONODISC CD 50382)の項参照のこと。


(4.30.04)



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by Tatsushi Tsukahara